nanami-JP’s blog

40代おひとり様の日々のささやかな幸せ探し。日々の楽しみや旅行記などを徒然に。

全てのエヴァンゲリオンからの卒業とカヲルくんとのお別れ、そしてエヴァ教への入門案内

今週のお題「〇〇からの卒業」

 

※以下、ほんのりネタバレ部分があります

 キャッチコピーに「さよなら、全てのエヴァンゲリオン」を掲げ、ついにエヴァンゲリオンシリーズを締めくくるともっぱらの噂の「シン・エヴァンゲリオン劇場版」最終章を、私も「待ってました!この四半世紀の落とし前つけるぞ!」とさっそく鑑賞してきた。

 まさにキャッチコピーにいつわり無しの見事な終劇…‼

 

 そして、全てのエヴァンゲリオンシリーズに、エヴァンゲリオンをこの世に出すためにかかわった全ての人にありがとうという気持ちで感無量となったのだった。

 

 庵野秀明監督という天才のクリエイティブな苦悩と愛への妄執とがぐちゃみそに詰まったエヴァンゲリオンシリーズに実に四半世紀もリアタイしてきた身にとって、まさに「シン・エヴァンゲリオン劇場版」最終章の鑑賞はエヴァンゲリオンからの卒業式でもあった。

 

 思い返せば四半世紀前、まだ学生だった頃、当時のテレビ東京の夕方は面白いアニメが多くてひとまず予約しとこくらいのノリで予約したのが「新世紀エヴァンゲリオン」との初めての出会いだったように思う。1話の作品としてのクオリティの高さにファーストインパクトを受けたものの、正直、私的には作品としてはクオリティ高いなぁ、でも私の好みじゃないな~でも周りでは好評だし一応観ておこうかなぁという心境でなんとな~く毎週、惰性で観ていたのだった。
 そんな私が「エヴァンゲリオン」という作品に興味を持ったのは、23話の放送後に流れた24話の予告。 そして強烈に認知したのは24話の「最後のシ者」を観た時だった。

 そう、TVシリーズでたった1話しか登場しなかったのに強烈なインパクトを残し、その後のエヴァシリーズで何食わぬ顔で1軍入りした、あの「渚カヲル」くんの回である。
 かくいう私もセカンドトインパクトばりの衝撃を受けて、その週はすっかり脳内がカヲル君一色になってしまったのだった。

 

 多少ファザコンのある身として、シンジ君がカヲル君に惹かれるのがものすご~~~く分かる。
 綾波レイが母性の塊だとしたら、渚カオルは父性の塊。
 不完全な子どもの自分を守ってくれる存在なのだ。
 実の父親にはネグレクトに近い扱いを受けてたシンジがカヲル君に依存するのは、そりゃあコーラを飲んだらげゲップが出るがごとく至極当然なのである。

 

 実の父といたって普通の親子関係ではあったものの、独立心が強すぎてやや過保護な両親に「私が求めてるのはそうじゃないんだよなぁ」と妙な居心地の悪さを感じていた私自身もまたカヲル君の魅力にすっかりはまり、私の中ではエヴァンゲリオンはシンジ君がカヲル君に出会うための物語という認識だった。
(と同時に私は、当時、母性の塊の綾波レイが正直、苦手だった。
 多分、私は綾波に情の深い実の母の母性の片鱗を見てしまって避けていたのかもしれない。)

 

 とまぁそんな私にとってのセカンドインパクトはカヲル君だったので、その後、カヲル君の残滓を求めて四半世紀にわたってエヴァンゲリオンシリーズの新作が公開される度に劇場に行くのがもはや祭事となっていた。

 

 ……のだが、違和感を感じたのは「シン・エヴァンゲリオン劇場版Q」を観た時だった。

 

 「あれ?カヲル君ってこんなに短絡的だっけ?もっと頭良かったと思ってた」と思ってしまったのだ。
 私の憧れのカヲル君じゃない…さては彼も3人目か⁉と、さながら私にとってのニアサードインパクトである。
 こんな風に思ってしまってごめんなさいと思いつつ、この感情は何だろうかと思って自己反省をしてみたところ、高校生の時に好きだった男の子が大人になって同窓会で再会して恋心再燃するかと思ったら、むしろ解釈違いで決別☆というのとひじょーに似ていた事に気づいた。
 そして寧ろ、ニアサードインパクトから気づいたら14年後?の世界で、必死に戦っているミサトさんやリツコさんにとっても親近感を持ってしまい、あんまりカヲル君にときめかなくなってしまったのだ。

 まぁそりゃ当然の話で、「シン・エヴァンゲリオン劇場版Q」の公開は2012年となれば、放送当時から17年も経っている訳で、私自身の年齢もシンジ君たちよりも寧ろミサトさんやリツコさんと同じくらいになっており、社会人としてそれなりに嫌な事や楽しい事を経て穏やかな日々こそ最大の幸せ♪と思うようになってしまった身としては、10代のガラスのように脆い感性は遠い昔、アラフォーとしての艱難辛苦に共感大なのは致し方ない。

 

 と、良くも悪くもカヲル君を客観視できるようになった事で、逆に少女のまま時を止められたアスカの哀しみや無垢な存在の綾波の魅力にも気づけた訳だが、自分がオトナになっちゃったんだなぁと一抹の寂しさを覚えたのだった。

 そんな訳で私は「Q」でカヲル君を憧れの存在から卒業し、寧ろ宿命に囚われたいたいけな少年として再認識したことで「守りたいこの存在!」という母性があふれてしまった次第なのだが、作中のシンジ君はカヲル君との別れ直後の話が今回の最終章な訳で、そりゃ立ち直るのにかなりの尺が必要だよなぁと、今回の140分を超える超大作の意味を実感したのだった。


 「エヴァンゲリオン」のTVシリーズを視聴していた当時、丁度ヘルマン・ヘッセの「デミアン」を読んでいた時期でもあったので、カヲル君はシンジ君のデミアン的存在として少年期に出会うべくして出会う必要な存在なんだわ!と熱く思っていた。でもだからこそ、少年時代からの脱却として、少年期の父性を象徴するカヲル君が死ぬ必然性を、その当時は感性でなんとなく理解しつつ心は納得していなかったものだが、すっかりいい歳になってしまった今現在、物語上でカヲル君の死の必然性には非常に納得させられる。
 何故なら「エヴァンゲリオン」シリーズは、碇シンジという少年がオトナになるための通過儀礼の痛みの物語なのだから。
 特に今回の「シン・エヴァンゲリオン」最終章は少年が他者を許容し自己肯定することでオトナになる最後の通過儀礼なので、その直前の章となる「Q」でカヲル君が死ぬことはトリガーとして必要だったのだと理解できる。
 (とまぁ頭ではわかっているもののやっぱり哀しいので気持ち的には嫌だけど)

 

 …ということで、前作の「Q」で渚カヲルを客観視できたことで父性の塊のカヲル君という幻影とお別れでき、1個人としての渚カヲル君の魅力と脆さを再認識したうえで、今回の「シン・エヴァンゲリオン劇場版」最終章でもって、碇シンジ君とともに私も無事に全てのエヴァンゲリオンにさよならをし、卒業することができたのだった。

 

 「シン・エヴァンゲリオン」最終章はエヴァンゲリオンシリーズを通じて碇シンジを媒体にして表出された「少年」性の物語だが、碇シンジが多大な痛みの伴う通過儀礼を経て他者許容と自己肯定を得たことでオトナになれたことで、少年性と碇シンジは乖離することができ、この作品においての概念としての「少年」は神話となり、碇シンジという一個人は少年からオトナへと成長することができたのだと思う。

 

 使徒は少年がオトナになるためのさまざまな通過儀礼で、エヴァンゲリオンという存在は儀式を無事に遂行するために必要な道具だったのだろう。
 だから、ちゃんとオトナになる覚悟のできたシンジ君は、四半世紀かけてようやっと全てのエヴァンゲリオンにさよならできたのだと思う。
 
 そして私たちいち観客もまた、四半世紀かけて紡がれたある天才のクリエイティブへの苦悩と愛への妄執を一緒に見届けたことで、心も気持ちも時間をかけてエヴァンゲリオンから卒業できたように思う。

 

 けれど、卒業は決して終わりではない。

 

 次の新たな道の始まりを示すものでもあるのだ。

 

 「新世紀エヴァンゲリオン」は他者の許容と自己肯定を新たな形で私たちに示したことで作品の枠を超えてもはや一つの思想を生み出したように思う。
 旧シリーズを経て生み出された「シン・エヴァンゲリオン」として、さながら新約聖書のごとく21世紀の新たなバイブルになったといっても過言ではなかろうか。

 

 そういう訳で私はシンジ君たちが守った(かもしれない)この世界に最大の感謝と愛しさをもって、人は人、自分は自分と割り切った上での他者への優しさと愛を培っていきたいと思う。

 

 って、もうこれ作品超えて宗教じゃん…⁉

 

 ということで、すべてのエヴァンゲリオンファンには、エヴァンゲリオンからの卒業後、新エヴァンゲリオン教が両手を広げて待っている。

 

 

 

お題「ゆっくり見たい映画」

お題「好きなシリーズもの」