月に一度は週休三日のススメ【40代おひとり様のスローライフ】
連日連夜の猛暑が続き、あまりの暑さに部屋から出ることもままならずセルフ軟禁状態になり、常に30度以上の気温に果たしてここは日本だったろうか?と思わず自問してしまう今日この頃。
暑さは思考力も奪い、仕事もびっくりするくらい全く身に入らない。
この時期、お盆休みをしっかり取れることが本当にありがたい。
やはり休みは必要だ。
さてそんな中、とあるWEBニュースで、日本の祝日は実はアメリカなどより多いのだという記事を拝読した。
2020年は祝日に振り替え休日も含むと18日の休みがある。
そこに土日が加わると土日祝日は計120日の見込みとなる。
かつ会社の夏季休暇と年末年始の休業日が7日ほど。
さらには法改正でリフレッシュ休暇の取得が5日。
有給取得可能日も含めれば、年間ざっと135日くらいは休めることになる。
一年の約37%。1/3強は休んでOKな状況になっている。
ヨーロッパのような夏の長期休暇は取れないものの、年に1回は土日挟んで10日間の休みを確保しようとすればできるし、3連休も多いので休日の活用度合いが昔よりも高まったように思う。
もちろんこれは会社員基準で、フリーランスの方や飲食店、観光業など手掛けている方々は休日はかき入れ時ということで、そうそう休みも取れないだろうから、それは職種の違いということで。
あくまで一個人の話として、ここからは年間の約1/3を休んでも良いという状況が、おひとり様の人生に何をもたらすかという話。
平日=仕事とすると、一年の2/3にが仕事に占められているということにもなる。
もちろん、平日も残業しなければ仕事自体は7~8時間といったところだが、7時間の睡眠と食事や日常生活の細々した家事や所用などで平日の残りは消費され、脳味噌的にも平日は仕事モードのスイッチが入りっぱなしになっている。そのせいか、平日は心から安らぐことは少ない。
しかもコロナの影響でリモートワークも増え、見えない分、いかに成果を出せるかに苦心することになるので、なんだか以前よりも仕事への集中度とタスクが増えたように思う。
それ故、仕事から解放される週末の土日が最近ものすごく楽しみになっている。
仕事自体を辛いとか嫌だと思うことはないが(面倒くさいと思う案件はままあるけれど)、仕事関連から解放され脳味噌が仕事モードから休暇モードに入る金曜の夜が最高に楽しい気分になる。
昔はそんな事を思ったことなど全くなくて、なんとなく週末を迎え気づいたら週明けになっていることが多かったのだが、最近はおひとり様の休日をどう過ごすかが第2の命題のようになっているせいか、オンオフのスイッチがしっかり入るようになった。
そう、40代も半ばの独り身で、かつ最近はコロナ禍で外出もままならず、数少ない友達と会うこともできず、実家に帰省もできず、一人でいる時間が昔よりもかなり長い。
そうなると人間、不思議なもので、状況を変えたくなって、普段しないような事もしたくなってくる。
そもそも週休2日というのは、パナソニックの創始者である松下幸之助氏が提唱したのが始まりだったらしい。
休日の1日はゆっくり休養し、もう1日は己の研磨に努める時間として活用せよ、という意図だそうだ。
己を磨く時間を持つことで、人として成長することが仕事への効率も高め、人材強化にも繋がる。
なるほど、さすが堅実勤労な松下幸之助氏!
そんな姿に憧れるものの、やっぱりパーッと遊びたい。
好きなことしながら無為な時間をダラダラ過ごしたい。
そんな訳で、私にとっては月に1度は三連休がおススメなのだ。
土日の2日間だと、土曜は平日5日間の精神的疲労で正直、何もしたくない。
お昼くらいまでベッドでゴロゴロ2度寝しながら、合間にスマホで雑多な情報をツマミ食いして気分転換してから、さすがに空腹に耐えきれずようやっと起きられる。
午後は細々とした家事をしたり、録り溜めたドラマを見ているうちに、気づけば日が暮れてしまう。
そのあとは一人晩餐会で飲んで食べてをしているうちに、もう深夜。
そして翌日も心行くまで寝ているとあっという間に昼になってしまう。
日曜の午後は食糧の買い出しという重要かつここ最近の貴重な楽しみの一つがあるので、なんかもうそれだけで気持ち的に手一杯に。
そうして少し早めの夕食を堪能しながらTVを見ているうちにあっという間に日曜が終わってしまう。
実に光陰矢の如しな週末。
月曜の朝を迎え仕事スイッチを入れるまでの短い時間、あっという間に過ぎ去った土日への未練で妙に憂鬱になる。
そんな時の三連休、である。
猛暑にへこたれながら迎えた8月の3連休。
暑さで部屋からほとんど出ることなく、一人軟禁状態となったのだが、精神的充足度がかなり高かった。
正直、1日目はいつもの土曜日と同じようにだらだらのんびりなのであるが、2日目からが違う。
翌日も休みだと思うと、心の余裕のせいか、何故か早く起きられるのだ。
そうすると午前中に家事を済ませ、かつ掃除もより時間がかけられれ、小奇麗になった部屋は軟禁生活に快適さを与えてくれる。
午後は買い出しミッションが発生するのだが、翌日も休みだと2日にわたる晩餐会となるので料理もちょっと冒険してみたり、2日に渡って食せる常備食も作ってみたりと料理に幅が出る。そして何より明日も休みという気持ちで食べる夕食は美味しい。
そして迎えた3日目。
1日目、2日目の精神的余裕が3日目も早起きを促し、午前中から時間がかなり使える。
そうなるとものすごく暇になり、普段やったことないような事を始めたくなる。
先日の3連休では3日目の朝食後、押し入れの奥にしまっていた10年前くらいのビーズを徐に取り出し、無心にビーズをつなげる所業を始めた。
そして午後は、やはり本棚に眠っていた本を発掘し、十数年ぶりの邂逅を果たすこととなった。
しかも2日目に料理を2食分作っていたおかげで、3日目の夜は簡単な準備ですぐ夕食を食べられるのでかなり時短になる。お腹がペコペコになる直前まで本を読んだりTVを観たり、ボーッとしたりと、精神の解放度合いが半端ない。
身体は家の中からほとんど出なくとも、気持ちの充足度が高まればむしろ快適で楽しい。
そして精神的余裕が生まれたことで、松下幸之助氏が提唱した自身の修養にもようやっと目を向けられるようになったのだった。
ということで、今後は個人的オススメとして、連休が無い月は有給休暇を活用して一人三連休をしたいなと思うようになった。
さてそんな中で迎えた盆休み。
三連休よりさらにもう一日休めることに感謝しながら、午前中はより精神的な解放として今回は何をしようかとつらつら考えながら掃除をし、昼食前の息抜きに休日の有用性を徒然と書き連ねている。
休日の午後はプラネタリウムで心は宇宙へ【40代おひとり様のスローライフ】
しかも空調もほどよく効いているし、資料室では雑誌『ニュートン』を読み放題だしと、休日の午後のひと時を過ごすのにとても寛げる空間がそこにあった。
さらに昨今のコロナ禍で人がほとんどいない。
プラネタリウムも数名の鑑賞者でかなりのソーシャルディスタンスを保つことができる。
(その一方で「ベルサイユのばら」や「キャンディキャンディ」、「レディージョージ」など少女向けアニメや偕成社の少女小説シリーズにもトキメいていたものだが)
きっと遠い昔、羊飼いや船乗りたちも頭上を覆う満点の星空の圧に、身をもって宇宙の存在を体感していたに違いない。
コロナ禍で実家にも帰省できずに暇なおひとり様の夏休みの楽しみとして、その夜はベランダでビール片手に流星鑑賞を今から楽しみにしている。
スニーカーを履くべきか、履かざるべきか。それが問題だ【40代おひとり様のスローライフ】
それでも毎日のご飯は美味しく食べたいし、夜はなるたけぐっすり眠りたいし、楽しみにしているドラマは毎週たくさんあるしで、もともとインドア派もあいまって私自身の日常はあまり大きく変わらず、スローライフが続いている。
(梅雨に入り小雨の中でぬかるむ遊歩道を通る時はレインブーツが大活躍だったが)
しかもいかんせん、庶民の私が履く靴はお安いサンダルなので、クッション素材などほぼ皆無のペタペタサンダル故に、アスファルトの硬さがダイレクトに足裏を通して膝に伝わってくる。
しかも久々に履いたサンダルは、シューズボックスの中でカチカチになっており、私の踵を削ることこの上ない。
シンデレラの義理の姉たちがガラスの靴を履くために躍起になって踵や指先を削ったかのような激痛が歩く度に訪れるのだ。駅に着いたら踵は流血という大惨事。
王子様のいない身としては、人魚姫のような一途さもなく、この痛さは我慢できる訳がない。
野山を駆け回る時に、多少とがった小石はあっただろうが、厚く強固に鍛えられた足裏の皮膚でなんのそのだったろう。先日、ぬかるみで派手に転んだ身としては、靴よりも実は裸足のほうが指先の力も活用できて転びにくいことは実証済みである。
もちろん、登山靴だったり長靴だったりと身を守る靴は未だ脈々と受け継がれている。
それでも、実利とオシャレに2分化されたのは、紀元前からもう起きていたのではないか。
例えばソクラテスやプラトンが実労働より脳みそフル稼働に勤しんでいた古代ギリシャ。夏場はビーチサンダルが必須のように、熱砂対策としてサンダルは重宝されていたらしい。身を守る実利と共に、ギリシャ・ローマ時代の彫像で良く見かけるドレープ豊かな布をまとった姿に似合う装いとして、サンダルはワンポイントオシャレになっていたのではないかと思われる。
さらに、文明が発達し街ができ石畳の歩道が作られると、硬い石の上を歩くには靴は重宝されたのではなかろうか。しかも硝子の発明は同時に硝子の破片という凶器も生み出した訳で、うっかり破片を踏んづけようものなら痛さも半端ないが切れ味抜群で破傷風など2次被害の危険も生じる。それは働く人間にとって必要なものとして、実利を主とした靴が発展するきっかけになったかもしれない。
対して、中世になって貧富の差が明確になり、裕福層は馬車で移動するようになると、靴は足元を守ることはもちろん、衣服の延長として足元のオシャレをアピールする要素に仲間入りしたと思われる。
レースや絹のドレープに身を包んでおきながら、足元だけ裸足というのは心元ないことこの上ない。
さらに貴婦人たちは長距離を歩くことすら必要なくなったことにより、靴は実用性をすっかり失いオシャレに特化することになった。ロココ時代にあの愛らしいミュールが流行ったのは当然だろう。だってとってもカワイイもの。宮殿内を歩くための履物、要は室内履き=スリッパと考えたら、ドレスと一緒にマイスリッパをデコりたくなる気持ちはとってもよく分かる。しかも、恋愛に興じていた貴族たちだから、あの幾重にもなったドレスの隙間から、これまたカワイらしいミュールがチラ見えするチラリズムは効果的だったのではないだろか。
そうして、靴文化は実用性とファッション性という2つの道に大きく分かれて進化をたどって今に至るのだろう。
でも、会社で超ラフな恰好をする訳にもいかず、それなりの清潔感をもった装いとなると厳ついスニーカーは味気ない。かつ夏服の軽やかさにはやはりサンダルが似合う。
旬の野菜で一人晩餐会【40代おひとり様のスローライフ】
あまりに暇ずぎて、3日目にして窓辺に座って木々が雨に濡れる様子を眺めてみたのだが、3分と持たなかった。
そんな自主的な軟禁生活の楽しみといったら食べること。
ゴロゴロしてるだけなのに、お腹だけはいい感じに空くから不思議。
一人晩餐会はお腹が空いてからセッティングするので、今すぐ食べたい!という気持ちが先走り時短レシピにどうしてもなってしまうのだ。
・豚ヒレ肉とエリンギのソテー。ソースは玉ねぎ&リンゴのすりおろしソース
・トマトとセロリのサラダ
・生春巻きのマヨコーン巻き(トースターで7分焼くだけ)
・頂き物のハム
・小松菜とジャコと油揚げのお浸し
・きゅうりのブツ切りにお味噌を添えて
・豚しゃぶときゅうりの中華ソースがけ
・スナップえんどうとほうれん草のサラダ
・スーパーで買ったお惣菜のポテト
・まぐろのタタキ
・スーパーで買ったカニクリームコロッケ(近所のスーパーのお気に入り総菜の1つ)
・トマト、キュウリ、玉ねぎの夏野菜サラダ
・カブのわさび醤油和え
・スーパーで買った総菜のボンジリ
・ミョウガと大葉をたっぷり乗せた冷奴
・枝豆
・完熟トマトのサラダ
第5位
・牛ミスジのソテー&オリーブ・ブルスケット
・カブのレンチンサラダ(味噌マヨソース)
・トマト、キュウリ、玉ねぎの夏野菜サラダ
お肉に乗せるだけで美味しい。
・薄切り牛肉と玉ねぎのソテー(味付けはアンチョビとガーリックに醤油少々)
・レンチン5分のトウモロコシ
・キュウリのにんにく醬油和え
たっぷりの玉ねぎがモリモリ食べられて美味しかった。
トウモロコシもレンチンしただけだが、シンプルで美味しい。
旬のキュウリも瑞々しくてさっぱりと食せる。
サラダもレンチンで温めた野菜にバルサミコ酢とパルミジャーノチーズを絡めただけだが、チーズが程よく溶けて、これまたスパークリングワインとのマリアージュ。
第2位
・牛ミスジステーキにオリーブ・ブルスケッタで味付けした玉ねぎのソテー
・しいたけの味噌マヨ焼き
・しし唐のグリル
・きゅうりとシラスの和え物
しいたけの味噌マヨ焼きもお酒のツマミに最適。
・タコとズッキーニ、トマトの炒め物(ニンニクとアンチョビをたっぷりと)
・まぐろとオクラのタタキ(ショウガと醤油で味付け)に大葉添え
・小松菜のおひたし
夏野菜とタコのソテーはイタリアン風味付けで個人的に大ヒット!冷えたビールやスパークリングワインにめっちゃ合うことこの上なし。
そんなこんなで連休3日目の夕方、そろそろお腹が空いてきたので、今日も旬の野菜と割引お肉で一人晩餐会を楽しむことにしよう。
恐るべき菌力!森のキノコ祭り【40代おひとり様のスローライフ】
在宅の日の朝食はパンとカフェオレが多いので、せっかくだし美味しいパンにしよう♪とホテルブレッドなどちょっとお高め食パンを愛用し始めたら、アッという間にカビに侵されてしまった。しかも2回連続…。
でもそれって、逆に考えると、本来すぐにカビる美味しいものを長期間防腐できている時点でかなりの薬を投じているということだよな……と今更ながらに気づいて怖くなってしまった。
ついこの前まではキノコの一かけらも見かけなかったというのに。
三口コンロの活用法【40代おひとり様のスローライフ】
普段、自炊もままならず、このコロナ禍で在宅勤務になるまでは電子レンジの時短料理に特化しており、コンロ自体も1つあれば十分といった状況だった。
ならば!…と、久々というか実に十数年ぶりに精米を買って試してみたら、ビックリするほど美味しい!!
しかも奥に設置してあることから、そのまま鍋を置いていても手前の2口コンロで調理している際は邪魔にならない。
火を止めて蒸らす時間もそのまま置きっぱで済む便利さ!
ゴミ分別の厳しい地域に住んでいると、プラゴミがいかに多いか実感し、週1のプラゴミの日を逃すと結構溜まるのが地味にストレスだったのだ。
しかも、試しに勝った2kgの精米がなかなか減らない。多分、20~25食くらいはいけそうな塩梅。
ということは、レンチンパックだと1食100円だったのが、鍋で炊けばガス代含めても数十円!?
タイマーセットしつつもなるたけ近くにいるようにしている。
放置しっぱなしの炊飯器のほうが断然楽なんだろうなと思いつつ、そこまで三食お米派でもないので、昼食時の3回に1回の行事と思えばまぁ良いかなと。
スーパーで買ったお買い得のお刺身なら夕食の酒のツマミとして楽しんだ後、残りを漬けておけば翌日のランチで海鮮丼として堪能できちゃうのだ!
味変も楽しめて2度美味しい。
「月の子」で読み解くジェンダーの揺らぎ
#清水玲子
※以下、一部ネタバレを含みます
緊急事態宣言も解除され会社も6月初めの今週からは出社するようになったものの、約1ヶ月半の在宅勤務にすっかり慣れてしまった身には電車通勤は思った以上に重労働で、今日は家から一歩も出ずにゆったり自宅時間を過ごすことに。
約20年ぶりに再読して改めて今だからこそ分かることも多くて味わい深く、やっぱりワインは熟成したほうが美味しいのと一緒で、自身の経験を経て読み返す味わい深さを堪能することができた。
映像で見たいなと思わせる美しいシーンの連続で、読後はまるで広大な美術館を巡ったような快い疲れと満足感に浸される。
しかも内包しているテーマが人間の抱える矛盾から生まれるドラマで、20年ぶりに読み返してみたら、その深さに驚かされた。
主人公のベンジャミンことジミーは3人の中で唯一、女性化(成体)できる存在ではあるが、人間のダンサーの青年アートに恋をしてしまい母親と同じ轍を踏みそうになる。そんな彼女が普段は10歳くらいの幼い子供の姿をしていて、自らが望まないタイミングで成体化して絶世の美女になってしまったことで回りの男性たちが目の色を変える姿に戸惑い怯える姿が興味深い。心は幼いままで、そのありのままの姿を受け入れ愛されることを望みつつも、外見が先行してしまって、心と心の繋がりよりも見た目に引き寄せられる男たち。女と男である以上、どうしても外見の印象からは逃れられないのだと思い知らされる。それでも、本当の自分を理解して愛してほしいと思う気持ちは、ある意味とてもロマンチックなものだったのだと、この年だからこそ実感するようになった(笑)
そして、2人目の姉妹セツは3人のうち誰よりも女性的でとても庇護欲をかきたてる存在で、女性性を凝縮したような存在なのだけれど、彼はジミーのスペアでしかなく、ジミーが死ななければ女性体にはなれない。それでも彼(彼女)が同じ人魚の青年ショナに想いを寄せ、時として大胆にも思える突発的な告白や行動は、とても女性的だし、他者への無償のやさしさを折々に垣間見せる姿はとても美しく、私ですら守ってあげたい気持ちになってしまうほど可憐で、女性としてある種の理想像でもある。けれども、彼は女性体にはなれない。その残酷さ。トランスジェンダーの要素も持ちつつ、もしかしたら実は一番、女性という本能に忠実だったのかもと思える。
そして3人目のティルト。彼は一番の健康体で頭も良くリーダー格ではあるけれど、卵子を持っていないということで生まれた時から不適合者の烙印を押され、ジミーやセツ(の卵)を守らなければならないという枷に苦しむ。一番、能力が高いのに、お荷物とも思える何もできずに依存してくる2人を食べさせなければならない。しかも、食糧調達のために大変な思いをしていることすら知らずに無邪気に享受する2人に殺意すら覚えてしまう。同じ外見なのに、卵を持っているかいないかというだけで、明確に立ち位置に境界線を引かれてしまい、どんなに望んでも対岸に行けない現実はかなり残酷に思えるし、殺意を抱いてしまうのも致し方ないのではと思わせる説得力がある。そして、自分の存在と一番対岸にいるセツに憧れやまず、誰よりもセツを愛し守ろうとするのだが、その本心がセツになりたかったという自己愛にも近いものだったことも切ない。セツは本能というか女の勘でなんとなく気づいていたような気もする…。
働く女性、母として子供を育てる女性、そして女性自身の人としての自我の芽生え。多様化の兆しが見え始めた時代だからこそ、逆に画一された存在からの逸脱は時として見えない心の傷を生み出していたようにも思う。
他者とは違うことを認識し自我を持つことで、他者との違いに苦しむ土壌も生み出してしまったのだ。それが「月の子」では、3姉妹という3種3様の形となって生まれたのではないだろうか。
千々に乱れる女性たちの心の叫ぶがジミー、セツ、ティルトの姿を借りてメッセージを発信しているようにも思える。
そんな中でも特に「ありのままの自分を愛して!」と思うジミーはやはり主人公たる存在だったのかなと今なら思う。
「月の子」を最初に読んだのは高校生の時で、その時はセツの儚い美しさに惹かれて応援したい気持ちが高まって、ジミーが嫌いだった。学校行く前に本屋で立ち読みしたセツとセツが慕うショナのキスシーンに当時とっても心トキメいて、その日は授業なんてそっちのけでセツの幸せだけを夢見ていたため小テストは散々だった(笑)
2回目に読んだのは20代で、働き始めたころで女性性と1個人としての想いとに揺さぶられていた頃で、無邪気で幼いジミーがやっぱり苦手だったことに加え、高校生時代に大好きだったセツが、実はすごく受け身だったことにも気づいてなんだかちょっと気持ちが覚めてしまい、それから20年も距離を置いてしまっていた。ある意味、私は卵を持たないティルトの道を選んでしまったからなのかもしれない。
そして3回目。40代半ばに改めて読み直すと、ティルトの切なさがものすごく胸に響く。それは私がもう子供を成すことのできない年になってしまったから、卵を持たないティルトの苦しみが分かるようになったからかもしれない。そして、この年だからこそ、外見ではなく魂の本質を見てほしいと思うジミーの無邪気な純粋さが眩しく、そして距離を置いたからこそ素直にジミーの想いに共感できるようになって、ジミーが主人公であるこの物語にとても納得できて、読後が今までにないくらい爽快だった。
そして、連載開始から約30年経った今でもそれが変わっていないことに複雑な気持ちにもなる。
でもだからこそ「月の子」は現代の美しい御伽噺として、今なお心を打つのだろう。