nanami-JP’s blog

40代おひとり様の日々のささやかな幸せ探し。日々の楽しみや旅行記などを徒然に。

スニーカーを履くべきか、履かざるべきか。それが問題だ【40代おひとり様のスローライフ】

 緑多い土地に引っ越してきて早半年以上、その半分はコロナ禍で家の中で過ごす日々という、40数年生きてきた中で初めてのことが実に多く起こっている。
 それでも毎日のご飯は美味しく食べたいし、夜はなるたけぐっすり眠りたいし、楽しみにしているドラマは毎週たくさんあるしで、もともとインドア派もあいまって私自身の日常はあまり大きく変わらず、スローライフが続いている。
 そうこうしている内に例年より10日ほど遅れて梅雨も明け夏真っ盛りに突入!という中で、個人的だが実に悩ましい問題が、私の足元で生じている。
 
 緊急事態宣言下の時はずっと家にいたので、外出するのは食糧調達にスーパーに行くくらいで、お気に入りの森林公園の遊歩道を通っていくので、ラフなTシャツにデニムやチノパンといったラフな格好がほとんどのため、足元も自ずとスニーカー一択だった。
(梅雨に入り小雨の中でぬかるむ遊歩道を通る時はレインブーツが大活躍だったが)
 それが週の半分くらいは会社に出社するようになり、季節も夏ということで涼し気なトップスに風通しの良いスカートを活用するようになり、夏用サンダルを履いた時に悲劇が起きた。
 
 ぬかるみの残った赤土や砂利の遊歩道、めっちゃ歩きずらい…。
 
 それではと、住宅街を通り抜けるアスファルトコースにしてみたが、約1キロ強の道のりをヒールのついたサンダルで歩くのがかなりシンドい。
 しかもいかんせん、庶民の私が履く靴はお安いサンダルなので、クッション素材などほぼ皆無のペタペタサンダル故に、アスファルトの硬さがダイレクトに足裏を通して膝に伝わってくる。
 しかも久々に履いたサンダルは、シューズボックスの中でカチカチになっており、私の踵を削ることこの上ない。
 シンデレラの義理の姉たちがガラスの靴を履くために躍起になって踵や指先を削ったかのような激痛が歩く度に訪れるのだ。駅に着いたら踵は流血という大惨事。
 王子様のいない身としては、人魚姫のような一途さもなく、この痛さは我慢できる訳がない。
 
 早々に白旗を上げてスニーカーに戻したら、ものすごく歩きやすい。
 
 そういや自粛生活前の冬はどうしていたっけと思い返してみたら、冬はブーツやスニーカーだった。ブーツはちょいオシャレデザインながら厚底でクッション性もあり履きやすいものだったので、通勤時の靴に思い悩むことなど全くなかった…ということに今更ながら気づいた。
 それなら夏はもうスニーカーで良いじゃん、とも思うのだが、夏服にスニーカーが見事なまでに合わない。
 しかもお気に入りのサンダルは、我ながら気に入るだけあって、煌々しい飾りがワンポイントに入っておりカワイイのだ。電車に乗っている時や仕事の最中に、ふと足元を見てカワイイものを見ては癒される楽しみがそこにはある。
 
 実を取ればスニーカー、癒しを取ればチープなオシャレサンダル。
 
 どちらも捨てがたい……。
 
 思えば何故、人類は靴を必要とするのか。
 原始時代、人類は裸足だった。
 野山を駆け回る時に、多少とがった小石はあっただろうが、厚く強固に鍛えられた足裏の皮膚でなんのそのだったろう。先日、ぬかるみで派手に転んだ身としては、靴よりも実は裸足のほうが指先の力も活用できて転びにくいことは実証済みである。
 それがどうして人類は靴を履くようになったのか?
 それは、人類が布を発明し、身を守る毛皮から身を飾る衣服に意識を変えたことによるのではないだろうか。
 もちろん、登山靴だったり長靴だったりと身を守る靴は未だ脈々と受け継がれている。
 それでも、実利とオシャレに2分化されたのは、紀元前からもう起きていたのではないか。
 例えばソクラテスプラトンが実労働より脳みそフル稼働に勤しんでいた古代ギリシャ。夏場はビーチサンダルが必須のように、熱砂対策としてサンダルは重宝されていたらしい。身を守る実利と共に、ギリシャ・ローマ時代の彫像で良く見かけるドレープ豊かな布をまとった姿に似合う装いとして、サンダルはワンポイントオシャレになっていたのではないかと思われる。
 さらに、文明が発達し街ができ石畳の歩道が作られると、硬い石の上を歩くには靴は重宝されたのではなかろうか。しかも硝子の発明は同時に硝子の破片という凶器も生み出した訳で、うっかり破片を踏んづけようものなら痛さも半端ないが切れ味抜群で破傷風など2次被害の危険も生じる。それは働く人間にとって必要なものとして、実利を主とした靴が発展するきっかけになったかもしれない。
 対して、中世になって貧富の差が明確になり、裕福層は馬車で移動するようになると、靴は足元を守ることはもちろん、衣服の延長として足元のオシャレをアピールする要素に仲間入りしたと思われる。
 レースや絹のドレープに身を包んでおきながら、足元だけ裸足というのは心元ないことこの上ない。
 さらに貴婦人たちは長距離を歩くことすら必要なくなったことにより、靴は実用性をすっかり失いオシャレに特化することになった。ロココ時代にあの愛らしいミュールが流行ったのは当然だろう。だってとってもカワイイもの。宮殿内を歩くための履物、要は室内履き=スリッパと考えたら、ドレスと一緒にマイスリッパをデコりたくなる気持ちはとってもよく分かる。しかも、恋愛に興じていた貴族たちだから、あの幾重にもなったドレスの隙間から、これまたカワイらしいミュールがチラ見えするチラリズムは効果的だったのではないだろか。
 そうして、靴文化は実用性とファッション性という2つの道に大きく分かれて進化をたどって今に至るのだろう。
 
 さて、そんな現代、通勤のために1キロ強の道を往復するには、やはりスニーカーやブーツが最適。
 でも、会社で超ラフな恰好をする訳にもいかず、それなりの清潔感をもった装いとなると厳ついスニーカーは味気ない。かつ夏服の軽やかさにはやはりサンダルが似合う。
 
 実に悩ましい。
 
 それなら、1キロの行程を耐えうるクッション性のある厚底サンダルを見つければよいのか?
 
 それではと、実用性もありそこそこカワイイ新しい靴を買いに行くには街に出ることになり、そのためにはやはり多少なりともオシャレをして出かけたい。となるとここはやはりオシャレサンダルの出番!…なのだが、駅までの1キロ強を生まれたての小鹿のようなアンバランスさと人魚姫のような苦行で歩く自信はもはや無い。
 
 という訳で、この夏突然訪れた靴問題は、未だ解決されていない。
 
 スニーカーを履くべきか、履かざるべきか。
 
 ハムレットのごとき悩みは尽きない。
 とはいえ、ハムレットの悩みも本当はそんなに深刻になる必要あったっけ?もっと気楽に生きなよ!と思えたように、私の靴問題も傍からみたら些末なことだろう。こんなことが悩みといえるお気軽人生に感謝ではあるのだけれど。
 
 こうして、奇しくも靴問題に対面したことで、改めて靴の存在意義を考えることになったのだった。