nanami-JP’s blog

40代おひとり様の日々のささやかな幸せ探し。日々の楽しみや旅行記などを徒然に。

遙かなる「ポーの一族」に想いを寄せて

お題「我が家の本棚」

#萩尾望都

<以下、一部ネタバレを含みます>

 

 緊急事態宣言ということで外出自粛という言い訳で、本来の引き籠りがちな生活に拍車がかかり、時間にもかなりゆとりができたことで心にもゆとりが生じたのか、久々に読書も楽しめるようになった。
 せっかくなので、数か月前、立ち寄った本屋で最新刊を見かけ、久しぶりの邂逅にときめきよりも衝撃を受けたのもあり、改めてこの機会に萩尾望都氏の「ポーの一族」をもう一度全話読み直してみた。……のだが、最新刊含め6巻分のコミックスに凝縮された時と記憶の重さに、若いころには分からなかった絶望と愛に眩暈がした。
 
 私が最初に「ポーの一族」を読んだのは、確か大学生の頃。かれこれ四半世紀も前だったというのも愕然とするが、その時からポーの一族は私の心の隅に刻まれ、ふとした折に、まるでずっと昔の同級生を懐かしく思い出すような存在だった。
 今回、改めて読み直してみたのだが、読み手の感性が変わると、こうも受け取り方が変わるもんだというのが一番の衝撃だったかもしれない。
 四半世紀前、まだ私がうら若き乙女だった頃、自分の若さが一過性のものだということも知らず、無邪気に、そしてある意味とても傲慢に若さを謳歌していた時は、自分もバンパネラになれたら良いのに…とだけ思っていた。しかも、アランよりも私のほうがエドガーと上手くやれる、幸せにできるのに!…と、なぜか無駄にアランに対抗意識を燃やしていたように思う。いや、本当、そんな思考になるとは、若かったんだなぁ…自分。
 
 それが40半ばにもなると、むしろアランが可愛い、というか愛しい。
 そして、若い頃はかっこ良いと憧れていた永遠の14歳の少年エドガー。彼の抱える孤独と絶望に、今は憐れみすら感じる。
 それはきっと、私が大人になってしまったからなんだろう。
 そして、私が大人になったことで、知らず手に入れていた幸福に気づく。
 
 しがないおひとり様ではあるけれども、今の私は社会に属し、迫害されることなく、つつましくも穏やかに暮らすことができている。それがどれだけ平和で幸せなことか。
エドガーは一族の中でも特例な存在として、成人前に永遠の命を得てしまった。
それは、彼が永遠に大人になれないことを意味している。
 いつでもどこでもずっと彼は「14歳の少年」という肉体に縛られているのだ。
 数百年も生きて中身は大人どころかもう老人も超えて仙人の域にいるというのに、周りは誰も彼を大人として見なそうとはしない。永遠に埋まらない世間と己の自我とのギャップ。なんて残酷なんだろうか。そして肉体が成長しない14歳の少年は、1か所に定住することができず2~3年ごとに各地を転々と流浪するしかないのだ。決して自分のせいではないのに、そうせざるを得ない不条理さ。
 彼の内面と世間とのギャップが時を重ねるにつれどんどん大きくなる悲劇が苦しく切ない。
 そんな彼だからこそ、共にある存在として同じ14歳の少年アランを選んだのだと、今ならわかる。だって永遠の少年が1人だけでは辛すぎる。
 エドガーとしては妹の身代わりではなく、自分の半身として選んだのに、それがアランには分からない。エドガーの絶対的な愛情が注がれていることにすら気づかない。何故ならアランは心も身体も14歳で止まってしまったから。
 エドガーが外見は変わらずも内面は時を重ねどんどん老成していくのに対し、アランは身体だけでなく心も14歳のままなのが面白い。
 アランは不思議と「今」だけを生きている。過去を悔いることもないし、懐かしむこともない。目の前を過ぎていく時にもこだわらず、ただその瞬間だけを愛し、楽しみ、怒り、悲しむ。
 物事を深く考えていないといってしまえばそうだが、だって14歳だし?
 しかも大人になれないということは、責任ある存在として社会に組する必要もなく、生活面はエドガーが面倒を見てくれることが保証されているならば、何を一生懸命になる必要があるだろう? 先のことを考えるなんてムダだし面倒くさい。そう割り切れたのは、先人として同じ少年のエドガーがいたことも大きいだろうが、アランの坊ちゃん気質が功を奏しているようにも思う。ある意味、強い。
今だけを楽しもう。過去の思い出(失った妹マリーベル)よりも僕を見て!……そう全身全霊で訴えてくるアランが、いっそ清々しく眩しい。
 
 それこそが、エドガーがずっと昔に失ってしまった「無垢」なるものなのかもしれない。
 
 だからこそ、エドガーはアランに固執する。
 アランの存在が、エドガーに命の瑞々しさを感じさせ、一緒にいる自分も「人」であったと思わせてくれるから。
 
 四半世紀前に読んだ時は、そんなエドガーの想いに気づけなかった。
 最新刊は、アランを失ったエドガーの物語なのだが、姿形を失ってもなおアランの亡骸…というよりかは残骸の炭屑を片時も離さず守ろうとする姿が切ない。
 昔読んだ時は、アランばっかりがエドガーを好きで、エドガーの塩対応とも思えるツレない感じがクールでかっこ良いなぁと思ったものだが、エドガーのアランへの愛があらゆるものを超越して重く大きすぎたから気づけなかっただけなのだと、年を重ねてそれなりにいい歳の大人になった今だからこそ気づいた。
 エドガーとアランはある種、共依存の関係ではあるが、恋愛でもなく友情でもなく、家族愛でもなく、ただただ半身として求めるエドガーの愛は、天然ピュアなアランにはちょっと理解しがたいものかもしれない。アランはごく自然に恋愛や友情を楽しめるストレートな性質だし。
 
 愛って目に見えず、人によって大きさも形もバラバラだから、本当にわかりづらい。
 
 そして、愛の形は人それぞれ故に、互いの形がぶつかりあって、幸せも、そして不幸も生まれてしまうのだなぁ…と、センチメンタルな気分になって思わず涙してしまった。そうして、改めて気づけるようになった自分に、大人になったことも実はそんなに悪いことじゃないんじゃないかなって思えるようになった。
 
 
 ちなみに今回「ポーの一族」を読み返して、昔は分からなかったこととして、もう一つ、社会適応するための形を作ることの難しさにも気づいた。
 バンパネラは人でない異形の者であり、生殖機能も無い。それは肉体的な性愛を必要としていないということで、ある意味、究極のプラトニックラブを楽しむことができる。だから、本来は魂と魂が引き合う者同士で一緒になれば一番幸せなのかなと思うのだが、人間社会に身をひそめるには、なかなかそう上手くいかない。
 エドガーにとってはアランと共に悠久の時を過ごせれば良いのだけれど、子供2人だけが生活してるって、世間から見たらとても異質だと思われてしまうのだ。そしてその異質さが本来の異形の者としての正体が暴かれるきっかけにもなってしまう。だから1か所にとどまれない。あるひと時、みなし子になったリデルという小さな子供をエドガーとアランは2人で数年間育てるという話があったが、それもたったの数年。リデルが分別つく年ごろになったら別れざるを得ない。中身はすでにそんじょそこらの大人よりも十分に年を重ね知恵と知識もしっかり持っているというのに、外見が少年というだけで、子供が子供を育てるなんて変だと見られてしまう。また最初の頃、エドガーは養父母と疑似家族となって各地を転々としていたが、お互い中身は大人というか分別もつきまくった男同士故に、養父と精神面では対等なのに、外見が少年というだけで附属する存在に甘んじなければならない苛立ちが描かれている。
 人である以上、肉体という器ありきの存在ということは当たり前ではあるけれど、永遠の少年でいなければならない残酷さというものを随所で感じた。
 そしてそれは、少年というだけでなく、肉体と精神のギャップを少なからず持つ者には何かしら刺さるのではないかなと思う。
 例えば、私は「女性」として、男性社会の中でか弱い存在、庇護する存在として見られる期間が長かったものだから、もう十分大人になった今でも、ついそういった存在であろうと擬態してしまう癖が未だに抜けない。
 未だにおひとり様なのも、たぶん、己の外見と中身の精神性の方向性が上手く合致せず、そんな存在と共にあってくれる存在というものがどういうものか分からないからなのかもしれない。
 とはいえ、いつか肉体の枷を超えて、心と心で響きあう相手ができたら、それこそとても幸せなことなのかも……と、ついつい夢見る乙女心はいまだ健在なのだけども(笑)
 
 そんなめくるめく想いに揺蕩う時間をくれた「ポーの一族」。
 
 人生の折々で読み返す楽しみを知り、この先また自分の転換期に、この物語が新しい扉を開いてくれるのではないかと予感している。
 
 

近場の散歩は緑の空間【40代おひとり様のスローライフ】

お題「#おうち時間

 4月の緊急事態宣言を受けて、会社はテレワークにシフトチェンジし、基本、平日は家の中で朝から夜までずっと仕事をしている。
 在宅勤務ということで、当初はのんびりゆっくりできるかと思いきや、意外と仕事が多く、書類作成に追われる日々でままならない。仕事に追われ、買い出しにもなかなか行けず、自ずと3日に1度行ければ良いほうな状況に。
 引っ越し前は都内だったのでコンビニまで歩いて5分もかからなかったのが、今や一番最寄りのコンビニも600m先、スーパーは20分弱歩かないとたどり着けない。飲み屋なんて2駅先までいかないとならない。
 近くにコンビニや飲み
屋があった便利さを今更ながらに感じている。
 
 とはいえ、そんな便利さと引き換えに手に入れた緑多い広々とした空間は、在宅勤務の身には最高の癒しになっている。
 窓の外を眺めれば、鳥のさえずりをBGMに新緑の木々が風に揺らめいているのだ。
 天気によってかわる様は見ていて飽きない。
 
 なんて贅沢な窓枠の景色だろう。
 
 そして、家のすぐ近くには原生林をそのまま活かした自然公園があるので、休日の運動や3日に1度の買い出しの際には自然公園を散歩して気分転換をしている。

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原生林の森に作られた遊歩道
 季節は新緑鮮やかな5月。…ということで、引っ越してきた当初の冬枯れた茶色の景色が、今は瑞々しい緑の空間に様変わりし、目に優しい。
 ところどころで山ツツジが咲いており、赤や薄紅色が新緑の合間にさし色となっている。
 そして足元には小花をつけた雑草が色とりどりに咲いている。
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彩を添える満開の山ツツジ
 日本の原風景に郷愁の想いを掻き立てられながら、終始PCに向かって疲れた瞳を癒してもらっている。
 こういう生活もあったんだなぁ…と40代半ばにして改めて気づいたのだった。
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赤松の丘から仰ぐ空と、日が落ち始めた遊歩道。
 新型コロナの影響で事態はままならないけれども、仕事環境が変わったことで気づけた大切なこともある。
 多分、1か月後くらいにはまた通常勤務となって前と同じような仕事スタイルに戻ることになるだろう。
 けれども、心に刻んだ緑の癒し空間に、仕事をより効率よくこなして定時退社と週末は完全オフを得ようと、自分の生活スタイルの見直しにもなった。
 
 在宅勤務を余儀なくされている会社も多いけれど、仕事のやり方について意識改革する良い機会なのかもしれない。
 リモートワークができる業種はどんどん取り入れて、在宅や近場のカフェや公共の憩いの場などで仕事ができるようになれば良いのに。
 そうしたら通勤ラッシュもなくなるし、都市集中型を避けて地方都市や田舎で働くこともできて、日本の住宅環境も変わるだろうに。
 
 私もこの自然がすぐ近くにある日々を大切にしよう。
 
 これから夏に向けて日没時間ももっと遅くなるだろうから、効率よく一生懸命仕事して早めに帰ったら、日没直後の黄昏時の住宅街の街並みや闇に溶け込んでいく木々を眺めながら晩酌することもできるだろう。
 
 それこそが最高の一杯だと今から楽しみにしている。
 
 

猫の散歩道のように【40代おひとり様のスローライフ】

引っ越し先の生活も気づけばもう3か月。
 
だいぶ周りの環境にも慣れてゆったりスローライフを送ることができている。
そんな中、通勤で毎朝、家から駅までの向かうのだが、その道すがらを楽しむ余裕もできてきた。
 
駅までは徒歩約15分と、今までほとんど運動をしていなかった身にはけっこうハードな環境で、何か楽しみがないと毎日続けるのもしんどい。
ということで、駅までの道のりを「朝の散歩」ということにして、いろいろな散歩コースを編み出すことにしてみた。
引っ越し先はほどよい片田舎ということで、家の近くには自然公園があり、その遊歩道をを経て駅へ向かう道筋もある。
快晴の日は、冬枯れた木々の梢の先に広がる青空を眺めながら公園というかちょっとした丘を越えるのも清々しい気持ちになる。
遊歩道もいくつかコースがあるので、どのコースを選ぶかで景色もまた様変わりするのも楽しい。
そういったコースも含めた、何通りかの「朝のお散歩」コースを編成中。
最近のコースは…
 
・パターン①:最短アスファルトコース
 Googleマップによる家から駅までの最短コース。住宅街を駅目指して突っ切っていく。
 朝寝坊した時や雨の日はこのコースが一番無難。
 また街灯が一番多いコースのため、会社帰りはこのコースを主に使っている。
 
・パターン②:公園の遊歩道Aコース
 家の近くの自然公園の遊歩道から駅に向かうコース。いくつかある遊歩道の中でも駅まで一番わかりやすく近い。
 晴れた日は基本、このコースを愛用。
 
・パターン③:公園のちょっと獣道遊歩道Bからの住宅地迂回コース
 遊歩道Aとは反対側に出る遊歩道は、ちょっとマイナーコースなためか道幅も細く、獣道に近い様相。
 少し遠回りになるが自然の中に身を置きたいときや足元の土の感触を楽しみたい時にこの道を通ると、朝から気分もリフレッシュ
 
・パターン④:畑の沿道+アスファルトコース
 家の近所にある畑沿いのあぜ道を通って、パターン①に合流するコース。
 田舎な生活を実感できる。これからさまざまな雑草が芽吹く春の季節に楽しめそうな予感。
 
・パターン⑤:住宅街+駅近くの公園突き抜けコース
 前半はパターン①の道筋と同じだが、途中で左折して少し迂回するコース。
 駅の近くの公園にたどりつくので、猫の額ほどの野原を2つほど通り抜けていく。
 野原には桜がたくさん生えているので、春はさぞかし見ごろなのではと今から楽しみ。
 夏も木陰が多く日焼け防止にもなるのではと期待。
 

…と、その日の朝の気分と余裕度合いで道を変えて、約15分~20分の朝のお散歩時間を楽しんでいる。
 
大半のコースは遊歩道だったり、大通りなど避けた住宅街の細い道を組み合わせているものだから、ひと様の軒下に咲く花を愛でながら、気分はさながら猫のよう。
 
 
まぁ、大半は寝坊してパターン①の最短コースを走り抜けることも多いのだが…。 
 
おかげで強制的なジョギングとなり脚力も少しだけアップしたような気もする。
 
 
 

日が暮れて後、宵闇の暗さを知る【40代おひとり様のスローライフ】

 引っ越した先は近くに自然公園が多い閑静な住宅地。
 
 最寄り駅の近辺には数件のお店しかなく、降車する人々は真っすぐに家路に帰る人ばかり。
 ぶらり飲み屋に立ち寄りなどできる環境ではない。
 引っ越ししたのが真冬ということで、定時通りに帰ってもすでに日没後で帰り道はすっかり夜の様相。
 休日も日が暮れると近所の家々は皆、門戸を閉ざしてしまう。
 
 久々に冬の日没時間の速さと、日没後の冬の静寂を実感している。
 
 そんな環境になったのは実に四半世紀ぶり。
 大学入学を機に一人暮らしを始める前は田舎暮らしだったので、冬の16時過ぎは山の稜線に太陽も隠れてしまい、もうほとんど夜に片足突っ込んだ状態だった。
 
 夜ってこんなに暗かったんだなぁ…と、久々の実感とともに、長年にわたり人間のDNAに刻まれてきた宵闇の暗さの恐怖が呼び起される。
 そんなもんだから、当然、本能のまま私も自然と帰宅が早くなった。
 平日は仕事があるので仕方ないが、なるたけ定時か残業も少なめに。遅くとも9時までには家に帰れるように逆算して取り組むようになった。それでも終わらない場合は翌朝早く出社することで帳尻を合わせることに。
 今までは23時~24時頃に帰っても、駅から徒歩4~5分のアパートまでは駅のホームや雑居ビルの明かりで賑わっていたから怖いなんて全く思いもしなかった(まぁ、治安という面での怖さは少々あったが)。
 それが今や、家路までの夜の様相を思い浮かべるたびに、早く帰らなきゃとソワソワするように。
 私の四半世紀の街中暮らしの歴史なぞ、長い人類の歴史に比べればミクロン単位というもので、速攻で上書きされている。
 やはり日の出と共に起き、日の入りと共に休むのが動物的本能なんだろう。
 
 そういえば昨年、真冬にヨーロッパに行った時も、日没は16時頃で街中もメインストリート以外は早々に夜の静寂に飲み込まれてしまっていて、出歩くのが無性に怖かった。
 日没後はホテルのすぐ近くのレストランかもしくはスーパーで買った総菜でホテルで食事をしたものだった。あれは、不慣れな異国の地ということももちろんあったが、やはり街の灯りの少なさによるものだろう。
 真夏のイタリアは白夜で20時代でも明るかったもんだから、結構遅くまで飲み屋で楽しんでいたのだから。
 旅先での体験と新たな新天地での経験を経て、長い冬の夜の過ごし方をいうものを改めて考える良い機会になっている。
 
 平日はなるたけ定時か早めに帰って寄り道せずに真っすぐ家に。
 休日も遅い時間まで出歩く必要などない訳で、用事がすんだら早めに家に帰ってどう寛ぐかに重点を。
 
 そんな冬のライフスタイルで、改めて冬の宵闇の暗さと静寂を楽しみはじめている。
 
 …とはいえ、やはり仕事帰りには、たまにブラリと入った飲み屋で軽く一杯(いや2~3杯)は楽しみたい。
 
 家飲みとはまた違った楽しさが、居酒屋の酒と肴にはある訳で。
 その楽しみをどうやってやり繰りするかが今のところ悩ましい。
 いっそフレックス活用して居酒屋がたくさんありそうな中間駅で途中下車して、17時くらいから一人飲みしてみようかと検討している。
 それもまたおひとり様の楽しみというものか。
 
 そして長年の習慣というものは恐ろしいもので、宵闇の暗さに冬の夜の過ごし方を改め始めた半面、朝は未だに起きられない。
 休日も昼くらいまで起きられない…。
 せめて休日も8時くらいに起きられれば、明るい午前の日の元で4時間くらいは活動できるはずなのに。
 そうしたら午前中に家事を済ませて、昼前からのんびりゆっくり外出もできるはずなのに。
 これがなかなか実行できず。
 
 そのため、早起きな近所の人々よりも私の休日は断トツで起床から日没までの時間が短いのが、なんだか少し勿体ない気もする。
 けれども温い布団にくるまっての惰眠の幸福には今のところ全くもって抗えない…。

 もう少しこの閑静な地での生活に慣れたら、休日の有意義な午前中の使い方を編み出せるようになりたいもんだ。
 
 

週末は日帰り温泉でのんびりと【40代おひとり様のスローライフ】

引っ越し先の新たな新天地は、都心から離れた緑豊かな所。
 
家から20分ちょい歩くと人造湖もあって、湖畔沿いにウォーキング&サイクリングロードが整備されており、自然の景色に癒されながらお散歩するのが週末の楽しみに。
 
引っ越す前は、週末は家の中に引きこもって5分圏内のコンビニか飲み屋に行く時だけ歩く…という生活だったのが(というか20年近くそういった生活を送ってきた)、環境が変わると人間も変わるのだなぁと実感。
 
とはいえ、長年の不摂生で体力がほぼ無い身としては、そうそう劇的チェンジは難しく、ジョギングやサイクリングに励む人々を眺めながらトロトロ歩いてウォーキング気取りをしている。
 
そんな週末に見つけた最高のリフレッシュが、家から30分ほどの所にある湖畔のホテルが提供している「日帰り温泉」。
しかもタオル持参だと100円安いのだ。
タオルとお財布、スマホと家の鍵だけ持って身軽に訪れることができるというのも近場の良さで嬉しい。
 
日の明るいうちから大浴場に伸び伸びと身体を預け、眼下に広がる湖の風景をボーッと眺めて揺蕩うひと時。
 
まさに至福の時間。
 
仕事のことなどパーッと忘れ、人間関係の煩わしさからも解放され、ただ一人、伸び伸びとお湯に浸かる時間を持てることは、おひとり様ならではの贅沢かもしれない。
 
しかも電車賃不要で徒歩30分で訪れることができる楽園!
なんてコスパが良いのでしょう。
 
そして、大浴場とサウナのコンボで体の芯から温まったら、夕焼けに彩られた湖畔を眺めながら家に帰り、好きなツマミで飲むビールの美味しさといったら!
 
何も考えない時間というのが、こんなにも贅沢なひと時なのだと気づかせてくれた近場の日帰り温泉
 
これからのスローライフの週末リフレッシュ候補の一つに即採用!
 

はてなブログで叶えた夢【40代おひとり様のスローライフ】

秋口にはてなブログを始めたものの、すっかりご無沙汰してしまい、気づいたら年も明けて2020年1月。

 

その間、思いがけない出会いと出来事があって、すっかりそっちにかかりっきりになっていた。

 

はてなブログで40代おひとり様の生き方を綴る機会を得たことで、改めて40代半ばとなった自分が今、真に求めるものはなにかを考えるこ とになった。
その中で分かったこととして、私は「自然に囲まれた環境」を半ば無意識に求めていたらしい。

 

そう気づいたことで、改めて自分が住みたい環境を考えてみることにした。

文字化したことで無意識の想いも言語化され、気づきのきっかけになったことを踏まえ、それならばと、住まいに対する自分の希望を言語化してみたのが9月の下旬。

 

そこから奇跡的な出会いがあって、年明けた今、新しい場所に居を構えている。


まずは当時、住んでいた部屋を客観的に見直してみるたのだが…。
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■今の住居(2019年9月当時)
<良い所>
・リビングが広い(9畳)
・ベッドルームが好みの仕上がり
・収納が多い
・内装が床も壁も白を基調にしておりキレイ
・日当たりがめっちゃ良い。リビングの窓が南側に2面の窓でサンルームばりの明るさ
・駅に近い(5分弱)
・都心に近い(電車で15分弱)

<気に入ってない所>
・隣のアパートや家と隣接しており窓が開けられない
・部屋からの眺めが雑然としている
・リビングごちゃついている(家具や物が多い故の自業自得だが…)
・ローソファーがいまいちくつろげない
・台所がめっちゃ狭く窓が無いため匂いがこもる
・脱衣所に洗面台が無い(ユニットバス内に備え付けのものはあり)
・隣の部屋と下の回の生活音がかなり気になる(夜中に謎の物音が頻出)
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一長一短はあるものの、一人で住むにはほどよい広さと間取りで、仕事中心で生活していた時は台所もほとんど使わず、部屋にいる時間も少 なかったので、リビングとは別に寝るためだけの寝室があることだけでかなりのパラダイス♪だった。
…のだが、人間、ライフスタイルが変わると求めるものも劇的に変わってしまう業の深さ。

 

ということで、現状を踏まえて、次に住んでみたい場所を書き出してみた。
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■次に住みたい場所(2019年9月当時)

・リビングが広い(できれば12畳。2部屋合わせて14畳でも)
・2LDK以上。または1LDKでリビングがめちゃ広い間取り。
・日当たりがほど良い。南向きか南西
・台所が広い。窓がある。リビングの一角でも可
・収納が2間以上。コートをかけられるクローゼットあり。
・独立洗面台
・内装がキレイ。白を基調。
・窓をあけると開放的な景色
・まわりに緑が多い
・田舎。のどかな雰囲気

<妥協する所>
・駅から徒歩10~15分。1kmくらい歩くのも可
・会社から電車で30~40分。または電車+バスで30~40分

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そうして翌日、ほぼ毎日のように眺めるのが趣味とかしつつあったYahoo!不動産で検索するも上記の条件に合致する物件は見当たらず…。
それなら希望条件がはっきりしてるから、他のサイトも探してみようか…と、思い付きでたまたま見つけたちょっとローカルな物件サイトで 探してみた所、希望条件を約9割満たす物件がビンゴ!

 

間取り的にリビングは8畳+台所4畳という点以外は、ほぼほぼ条件に合致していたのである!

もはやこれは運命!?

ならば運命に従うのみ!!

…と、いてもたってもいられなくなり、早速、内見を申し込み。
内見したその日のうちに仮押さえという連続コンボの攻撃で、無事に新しい住処を見つけたのだった。

そうして、引っ越しの手続きや準備と怒涛の展開を経て、今こうしてようやっとそれなりに片付いた新しい住処で、のんびりゆったりなスローライフを始めようとしている。

 

こうして出会えたのも、はてなブログで想いを言語化する方法を得たおかげ。

はてなブログ様々である。

やはり想いを言葉にするのって大事なんだなぁと実感したのだった。

 

物件で運命の出会いがあるのならば、人と人との運命の出会いだってあるはず!


と、前向きな気持ちも芽生えたことで、新天地での新たな出会いに期待して、2020年は私自身が心から求める運命の人像を漠然としたイメー ジから具体的な言葉にしてみようと思ったのだった。

 

ちなみに、言語化は言霊パワーが宿るのか、新しい物件で妥協点としてあげた内容も洩れなく付随していた…。
そのため強制的に歩く生活にシフトチェンジ。

まぁ、これはこれで運動にもなるかと前向きにとらえている(笑)

 

【40代おひとり様の徒然なる日々】 日本がお休みを決めた日。台風19号に寄せて

 まずは今回の台風19号で様々な被害にあわれた方々が、一日でも早い復興となるよう心よりお祈り申し上げます。

 

 未曽有の大規模な台風が日本列島を縦断し、関東直撃と報じられ、先日の台風15号の被害を踏まえ、世間はこぞって様々な対策を行った。

 鉄道は計画運休、大手スーパーやデパートは臨時休業、24時間が売りのコンビニさえも店舗ごとの判断で休みOK、そしてあの毎年入場者第1位で不動の地位を築くディズニーランド&ディズニーシーですら休園。

 私が所属する会社も土曜日でもとから休みではあったが、10月12日(土)は休日出勤禁止のお触れが早々に出た。

 そうして台風直撃の当日、テレビでは人気のない渋谷の交差点や新宿駅が報道され、まさにゴーストタウンといった風景が映し出されていた。

 それは然るべき対策の結果ではあるけれども、そのことに誰も異論を唱えず、粛々と最小限の被害にすべく誰もが家の中でじっと息をひそめて過ごした土曜日。

 

 その日はみんなの危機管理意識で成しえた、「日本がお休みした日」だった。

 

 そうして改めて日本人の同調意識の高さを実感した日でもあった。

 

 

 今回、未曽有の危機に備えて色々な機関が休みを打ち出したことで、会社もそれに併せて休みを推奨しやすくて本当に良かった。

 先日の台風15号の報道で津田沼駅に並ぶ3000人の列を見て、まったくもってその状況が解せなかったのだ。

 仕事の納期よりも個々の命が優先すべきじゃなかろうか。

 どうしてどの会社も休みを提唱しないんだろう?

(ちなみに私のとこの会社は部署判断で休みを取りやすくありがたかった)

 一日休んだって翌日のリカバーでなんとかなるように常日頃しておくのが仕事じゃないか?

 あの報道を見て、どうして命を預かる仕事に就いている人に優先乗車券が無いんだろうかと思わずにはいられなかった。

 もちろん、様々な仕事があってそれぞれの事情があるだろうけれども、医療機関や警察、消防など災害対応の機関や、地域ごとの災害対策を行う自治体、情報を確認、伝達する報道関係、そしてそこで働く親をサポートする保育園など、そういった業種の人に優先乗車券が発行されても良いんじゃないだろうか。そして、サービス業は会社やオーナーが休みを推奨してくれないものか。

 そんな矢先の台風19号、電車の計画運休が早々に発表されたのは本当に良かった。電車が走らないなら会社いけないもんね!お店も開店できないよね!仕方ないよね!と、明確に休める理由があるって大事。

 

 今回の台風19号で「日本がお休みする日」が実行できることが実証された訳だから、今後も大型台風など災害が生じそうな時は、ぜひ今回の事例をもとに休みを推奨しいと切に願う。

 

 ちなみに、普段、ニュースなどあまり見ず自由気ままに生きている私ですら、この日は一日ずっと家に閉じこもって台風が過ぎ去るのをただひたすらに待っていた。だって「未曽有の」とか「類を見ない強風や大雨」と言われてしまったら、まったく予想がつかず今できることを精一杯やるしかない。

 休日、外出せずに一日家に籠ることなんてよくあることだけれど、何が起きるか分からない不安に怯えながらじっと耐える一日というのがこんなにも時間が進むのが遅いとは知らなかった。テレビを見ていても、レンタルした映画を観ていても本を読んでみてもまったく落ち着かない。

 もし強風で窓ガラスが割れたら、停電になったら、アパートの部屋は3階とはいえ1階が浸水して陸の孤島状態になったら…。未知への不安が次々と浮かんで焦燥だけが募る。

 まんじりとしてもいられず、万が一本当になってしまった時を考えて、むき出しの窓に養生テープを貼ったりベッドを窓辺から部屋の奥に移動したり、貴重品をスポーツバックにまとめて手元に置いたり、ペットボトルに水を入れておいたり。意外とやることがたくさんあって、一人黙々とミッションをこなしていく。そしてふと気づいたら、常備食にと日持ちする野菜料理(前日夜、お肉はあらかた売り切れていた…)や蒸しパンを大量に作っていた。

 

 こうして台風が過ぎた今、なんのことはない日常を送れることが、実はとてもありがたいことなのだと身に染みたのだった。

 

 おひとり様で過ごす大型台風の日は、日々の自由気ままの代償とばかりに孤独と抱えきれないほどの恐怖に満ちていて、台風が過ぎ去った直後、気が抜けたのかストレスと気圧の変化による強烈な偏頭痛に襲われ、第2の恐怖を味わう夜となってしまった。

 

 それでも翌日、台風一過の晴天の中、安否確認をしあう親兄弟や友人たちがいることに得も言われぬ安心感を得て、やはり人は一人では生きていけないのだなぁと改めて実感したのだった。