nanami-JP’s blog

40代おひとり様の日々のささやかな幸せ探し。日々の楽しみや旅行記などを徒然に。

遙かなる「ポーの一族」に想いを寄せて

お題「我が家の本棚」

#萩尾望都

<以下、一部ネタバレを含みます>

 

 緊急事態宣言ということで外出自粛という言い訳で、本来の引き籠りがちな生活に拍車がかかり、時間にもかなりゆとりができたことで心にもゆとりが生じたのか、久々に読書も楽しめるようになった。
 せっかくなので、数か月前、立ち寄った本屋で最新刊を見かけ、久しぶりの邂逅にときめきよりも衝撃を受けたのもあり、改めてこの機会に萩尾望都氏の「ポーの一族」をもう一度全話読み直してみた。……のだが、最新刊含め6巻分のコミックスに凝縮された時と記憶の重さに、若いころには分からなかった絶望と愛に眩暈がした。
 
 私が最初に「ポーの一族」を読んだのは、確か大学生の頃。かれこれ四半世紀も前だったというのも愕然とするが、その時からポーの一族は私の心の隅に刻まれ、ふとした折に、まるでずっと昔の同級生を懐かしく思い出すような存在だった。
 今回、改めて読み直してみたのだが、読み手の感性が変わると、こうも受け取り方が変わるもんだというのが一番の衝撃だったかもしれない。
 四半世紀前、まだ私がうら若き乙女だった頃、自分の若さが一過性のものだということも知らず、無邪気に、そしてある意味とても傲慢に若さを謳歌していた時は、自分もバンパネラになれたら良いのに…とだけ思っていた。しかも、アランよりも私のほうがエドガーと上手くやれる、幸せにできるのに!…と、なぜか無駄にアランに対抗意識を燃やしていたように思う。いや、本当、そんな思考になるとは、若かったんだなぁ…自分。
 
 それが40半ばにもなると、むしろアランが可愛い、というか愛しい。
 そして、若い頃はかっこ良いと憧れていた永遠の14歳の少年エドガー。彼の抱える孤独と絶望に、今は憐れみすら感じる。
 それはきっと、私が大人になってしまったからなんだろう。
 そして、私が大人になったことで、知らず手に入れていた幸福に気づく。
 
 しがないおひとり様ではあるけれども、今の私は社会に属し、迫害されることなく、つつましくも穏やかに暮らすことができている。それがどれだけ平和で幸せなことか。
エドガーは一族の中でも特例な存在として、成人前に永遠の命を得てしまった。
それは、彼が永遠に大人になれないことを意味している。
 いつでもどこでもずっと彼は「14歳の少年」という肉体に縛られているのだ。
 数百年も生きて中身は大人どころかもう老人も超えて仙人の域にいるというのに、周りは誰も彼を大人として見なそうとはしない。永遠に埋まらない世間と己の自我とのギャップ。なんて残酷なんだろうか。そして肉体が成長しない14歳の少年は、1か所に定住することができず2~3年ごとに各地を転々と流浪するしかないのだ。決して自分のせいではないのに、そうせざるを得ない不条理さ。
 彼の内面と世間とのギャップが時を重ねるにつれどんどん大きくなる悲劇が苦しく切ない。
 そんな彼だからこそ、共にある存在として同じ14歳の少年アランを選んだのだと、今ならわかる。だって永遠の少年が1人だけでは辛すぎる。
 エドガーとしては妹の身代わりではなく、自分の半身として選んだのに、それがアランには分からない。エドガーの絶対的な愛情が注がれていることにすら気づかない。何故ならアランは心も身体も14歳で止まってしまったから。
 エドガーが外見は変わらずも内面は時を重ねどんどん老成していくのに対し、アランは身体だけでなく心も14歳のままなのが面白い。
 アランは不思議と「今」だけを生きている。過去を悔いることもないし、懐かしむこともない。目の前を過ぎていく時にもこだわらず、ただその瞬間だけを愛し、楽しみ、怒り、悲しむ。
 物事を深く考えていないといってしまえばそうだが、だって14歳だし?
 しかも大人になれないということは、責任ある存在として社会に組する必要もなく、生活面はエドガーが面倒を見てくれることが保証されているならば、何を一生懸命になる必要があるだろう? 先のことを考えるなんてムダだし面倒くさい。そう割り切れたのは、先人として同じ少年のエドガーがいたことも大きいだろうが、アランの坊ちゃん気質が功を奏しているようにも思う。ある意味、強い。
今だけを楽しもう。過去の思い出(失った妹マリーベル)よりも僕を見て!……そう全身全霊で訴えてくるアランが、いっそ清々しく眩しい。
 
 それこそが、エドガーがずっと昔に失ってしまった「無垢」なるものなのかもしれない。
 
 だからこそ、エドガーはアランに固執する。
 アランの存在が、エドガーに命の瑞々しさを感じさせ、一緒にいる自分も「人」であったと思わせてくれるから。
 
 四半世紀前に読んだ時は、そんなエドガーの想いに気づけなかった。
 最新刊は、アランを失ったエドガーの物語なのだが、姿形を失ってもなおアランの亡骸…というよりかは残骸の炭屑を片時も離さず守ろうとする姿が切ない。
 昔読んだ時は、アランばっかりがエドガーを好きで、エドガーの塩対応とも思えるツレない感じがクールでかっこ良いなぁと思ったものだが、エドガーのアランへの愛があらゆるものを超越して重く大きすぎたから気づけなかっただけなのだと、年を重ねてそれなりにいい歳の大人になった今だからこそ気づいた。
 エドガーとアランはある種、共依存の関係ではあるが、恋愛でもなく友情でもなく、家族愛でもなく、ただただ半身として求めるエドガーの愛は、天然ピュアなアランにはちょっと理解しがたいものかもしれない。アランはごく自然に恋愛や友情を楽しめるストレートな性質だし。
 
 愛って目に見えず、人によって大きさも形もバラバラだから、本当にわかりづらい。
 
 そして、愛の形は人それぞれ故に、互いの形がぶつかりあって、幸せも、そして不幸も生まれてしまうのだなぁ…と、センチメンタルな気分になって思わず涙してしまった。そうして、改めて気づけるようになった自分に、大人になったことも実はそんなに悪いことじゃないんじゃないかなって思えるようになった。
 
 
 ちなみに今回「ポーの一族」を読み返して、昔は分からなかったこととして、もう一つ、社会適応するための形を作ることの難しさにも気づいた。
 バンパネラは人でない異形の者であり、生殖機能も無い。それは肉体的な性愛を必要としていないということで、ある意味、究極のプラトニックラブを楽しむことができる。だから、本来は魂と魂が引き合う者同士で一緒になれば一番幸せなのかなと思うのだが、人間社会に身をひそめるには、なかなかそう上手くいかない。
 エドガーにとってはアランと共に悠久の時を過ごせれば良いのだけれど、子供2人だけが生活してるって、世間から見たらとても異質だと思われてしまうのだ。そしてその異質さが本来の異形の者としての正体が暴かれるきっかけにもなってしまう。だから1か所にとどまれない。あるひと時、みなし子になったリデルという小さな子供をエドガーとアランは2人で数年間育てるという話があったが、それもたったの数年。リデルが分別つく年ごろになったら別れざるを得ない。中身はすでにそんじょそこらの大人よりも十分に年を重ね知恵と知識もしっかり持っているというのに、外見が少年というだけで、子供が子供を育てるなんて変だと見られてしまう。また最初の頃、エドガーは養父母と疑似家族となって各地を転々としていたが、お互い中身は大人というか分別もつきまくった男同士故に、養父と精神面では対等なのに、外見が少年というだけで附属する存在に甘んじなければならない苛立ちが描かれている。
 人である以上、肉体という器ありきの存在ということは当たり前ではあるけれど、永遠の少年でいなければならない残酷さというものを随所で感じた。
 そしてそれは、少年というだけでなく、肉体と精神のギャップを少なからず持つ者には何かしら刺さるのではないかなと思う。
 例えば、私は「女性」として、男性社会の中でか弱い存在、庇護する存在として見られる期間が長かったものだから、もう十分大人になった今でも、ついそういった存在であろうと擬態してしまう癖が未だに抜けない。
 未だにおひとり様なのも、たぶん、己の外見と中身の精神性の方向性が上手く合致せず、そんな存在と共にあってくれる存在というものがどういうものか分からないからなのかもしれない。
 とはいえ、いつか肉体の枷を超えて、心と心で響きあう相手ができたら、それこそとても幸せなことなのかも……と、ついつい夢見る乙女心はいまだ健在なのだけども(笑)
 
 そんなめくるめく想いに揺蕩う時間をくれた「ポーの一族」。
 
 人生の折々で読み返す楽しみを知り、この先また自分の転換期に、この物語が新しい扉を開いてくれるのではないかと予感している。