40代おひとり様の徒然なる日々。老害なるものに遭遇する
今週のお題「夏を振り返る」
今週のお題「今年の夏を振り返る」にちなんで7~8月を改めて振り返ってみたものの、なんだか今年の夏は気づいたらあっと言うまで、あれ?もう9月!?…という心境。
何を成すでも何をするでもなくのんべんだらりな日々ではあったが、そんな中でも心がザワついた時があった。
おひとり様の40代。昨年は長期休暇でイタリア旅行に行くという人生大イベントが起きて大満足だった訳だが、今年は旅行にも行かず夏季休暇という名目で有給消化することもせず、暑さもあいまって仕事へのモチベーションもだだ下がり。ついには人生とは何ぞや? 生きるとは何ぞや? と哲学的思考のラビリンスに陥ってしまった。
このままでは何か新しい刺激がないと気が狂う…と謎の焦燥に追い立てられて、暇を持て余す週末、オープンカレッジに通うことにした。
朝10時30分からの講義なのだが、仕事なら起きられるのに自分の趣味だと何故か起きられない…。それでも遅刻常習犯になりながら通った先は初心者向け天文学。
その中で、まさかブラックホールもびっくりなシニア層のカオスに遭遇するとは思わなんだ。
オープンカレッジは一般の社会人が気楽に聴講しながら様々な教養を学ぶ場ということで、私が受講した天文学も太陽そのものや「太陽系」の概念、ダークマターについてなどなど天文学の基礎を初心者にも分かりやすく説明してくれる。10代の頃に理科の授業で得た知識を覆すような事例もあって、30年ぶりに知る宇宙情報は確実にアップデートされていて面白かった。
そして天文学を学ぶことで地球の希少価値、人類が今こうして文明を築けている奇跡を改めて実感し、生きてるだけで儲けもの、自分の存在価値はもうそれだけで十分じゃないか……と40代おひとり様の焦燥感も多少は慰められた訳だけれども、受講者の中にはそうもいかない先輩がいらっしゃった。
講義も数回目を迎えた時、あるちょっとした事件が起こったのだ。
講義は時間が余ると質問タイムがあるのだが、そこであるお爺さん…というか60代後半~70代頭くらいでまだ「オジサン」ともいえるギリギリの年齢と思しきある方が、先生に突然の爆弾を投下した。
「先生は何のためにこんな学問やってるの? 意味あるの?」
……え? そんなこと聞いちゃう? しかも数十人が聴講してるど真ん中の席で!? てか、天文学好きが集まってるんじゃないの? わざわざ受講料払ってただの冷やかし!?
と、一瞬にして教室の空気が凍りつく。
だが、先生もまた恐ろしいまでにブレなかった。
「いつか面白い動きをするホウキ星を見つけられたら面白いな~と思って、毎日ホウキ星の観測しています☆」
え?それだけ??? そんな回答で天文に興味なさそうなオッサン、納得しないんじゃ??
さらに教室内が凍りつく。
それでも先生はそれ以上のフォローをする訳でもない。
数十年の人生で千載一遇のチャンスがあるかどうか、そもそもホウキ星にイレギュラーの動きがあると確証されている訳でもないのに、万に一つ、いや億に一つの可能性をただひたすらに信じて、毎日毎日、観測を続けているという。
興味のない人間にとっては苦行かと思われることも、先生にとっては何よりも生きがいらしい。
これが人生の大半を観測や研究に費やすことを厭わない研究者の強さというものか!
さすがにオッサンもたじろいだが、それでもオッサンはめげなかった。
「俺は毎日仕事で成果を出すことを考えてきてたよ。天文学なんて解明されないことばかりでしょ? やる意味あるの?」
天文学講座でそれ聴くんか~い!?
…張りつめた空気を震わす聴講者たち一同の心のツッコミが聞こえたような気がした。
そんな中、先生だけは瞳をキラキラさせながら
「ホウキ星って、いろんな種類があるんですけど、ある側面から観るとみな同じレギュレーションなんですよ。もしその中でイレギュラーなものが見つかったら、新しい可能性がまた出てくることになって面白いですよね☆」
先生のホウキ星愛だけは痛いほど伝わってくる。
だが、オッサンが欲しい答えは多分そういうことじゃないんじゃ…、一般人の聴講者たちの心の声を代弁して、あるダンディなオジ様がフォローを入れてくれた。
「宇宙は分からないことだらけ、それを知るのが天文学じゃないですか」
おお、なんてカッコ良い言葉! そして改めて天文学の真理に胸を衝かれる。
そうしてオッサンもこのままでは分が悪いと分かったのか、ようやっと大人しくなったのだった。
講義後、眠気覚ましの珈琲を飲みながらこの事件を振り返り、はたと気づいた「これが老害なるものか!」と。
思い返せば質問をしてきたあのオッサン、言葉の端々に仕事で頑張ってきた自分への自信を滲ませてマウンティングしてきていた。
彼が今も仕事をしているかどうかは不明だが、自分が年長で仕事で認められている一角の人物だとアピールするのは、あの場では甚だお門違いなのだ。だって、天文学を学ぶ場において、聴講していた数十人の老若男女は先生に対して「生徒」という同じレイヤーの存在でしかないのだから。
それなのに「仕事でイケてる(イケてた)自分」という側面にのみしがみつき、そこから離れることのできないオッサン。
オッサンの魅力はそれだけじゃないんじゃないかな?
でも、それ以外を認められないオッサンには、その側面だけが総てだから、しがみついちゃうんだろうな。
なんて不器用な生き方なのだろう。
そして、70年前後の人生の彩が、その執着だけで真っ黒な心に凝り固まってしまっているオッサンが哀しい。
もちろん、仕事である一定の成果を出してそれなりの地位に就くというのはとてもすごいことだと思う。ただそれは本人の実力もあれど運だったり巡りあわせだったりするし、相対的に観たら上には上がいる訳で、1つの物差しでしかないのだ。
なのに、それだけにすがり、ちっぽけなプライドを守るために周りを威嚇せずにはいられないオッサン。
そんなオッサンの日々は果たして楽しいのだろうか? 幸せなのだろうか?
……いや、オッサンにとっては楽しいかどうかじゃない、自分を保つためにせざるを得ないのか。相対的な自己肯定のために。
だからといって、周りの人を不愉快にさせたり傷つけて良いわけでは決して無い。
それに、そんな事をしていたら周りはいっそうオッサンを敬遠し、ますます孤立していまうではないか。
そんな事にも気づかず、愚直ともいえる行動を起こしてしまう。
それが「老害」なるものなのか。
恐れを知らずに突き進むオッサンの「老害」は、なんだか自分では気づかないうちに、世間体という重力に飲み込まれて猛スピードで落下し燃え尽きるホウキ星のようにも思える。
誰も止めてはくれない。止められない。だって近寄ったら巻沿いになってしまうもの。
だからやっぱり、人生の軌道を変えられるのは落ちていく自分自身でしかない。
軌道を変えることはものすごく大変なことだろうけれど、絶対無理というものではないと思う。思いたい。
人生の軌道をガッチガチに縛っているのは固定概念という名の重力なのだから。
あのオッサンも老い先短いとはいえ、まだ10年~20年は生きる可能性があるだろう。
どうか残りの日々の中でいつか、自分自身の存在をありのままに受け止めて心の安寧を得て欲しい。
そうしてあのオッサンの姿が、これからシニア時代を迎える自分の一つの可能性であったことにも気づき慄く。
誰の人生にも、あのオッサンの二の舞になる可能性が潜んでいるのだ。
己自身が老害にならないためにも、自分というものをなるたけ冷静に多面的にみられるようになりたい。
そうすれば、長いおひとり様の人生が無意味なものではないと思えるはずだから。
先生が一生かけて取り組んでいるホウキ星の軌道の種類を発見することの難しさに比べたら、心の軌道をちょっとだけでも変えることは、誰にでもできる、新しい自分自身の発見への道なのだ。